聖夜に想ったこと

ここ数年クリスマスは小さなグループで迎えている。どちらかと言えば金銭的にも社会的にも恵まれていない、社会の隅っこで生きる人たちと一緒にクリスマスを過ごしている。

55歳のボクが子供の頃、新潟の小さな田舎町では「貧乏」が普通だった。昨今の相対的貧困ではなく絶対的貧困だった。戦後20年が過ぎても地方の町は貧乏が普通、周りの子供だって同じようなものだった。

ボクの父親は豪農の次男坊、家は裕福だったが農家の次男は家を継ぐことは出来ないので小さな町工場で働いていた。母の実家は宮金職人、神社仏閣の飾りを作る職人だったらしい。母は兄弟姉妹5人の長女だったので口減しのために中学に行く頃から丁稚奉公に出された。まるで「おしん」のようである。ちなみに中学時代の同級生にジャイアント馬場がいる。

共稼ぎだった両親は実家で剣山を作っていた叔父のところに預けることがあった。朝食はきまって薄いおかゆと塩、梅干しもあっただろうか。おかずの記憶がないということは食卓にのぼらなかったのかもしれない。

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昭和40年代当時の我が家は風呂なしの4畳半と6畳二間の長屋暮らし、隣の家とはベニア板一枚で仕切られた絵に描いたような貧乏長屋だった。以前は石炭小屋だったのを大家がアパートに改装したのだと母親から聞いたことがある。こんな貧乏長屋はテレビや映画の世界にしか残っていないのだろうな。これだってまだマシな方で結婚当初は線路脇の3畳しかないアパートに住んでいたらしい。

お風呂は夏には玄関のたたきで行水、冬は歩いて15分ほどの銭湯に通った。隣の家が内風呂をつけてからはその家の同い年の男の子と一緒に風呂を使わせてもらうこともあった。真冬のシンシンと雪が降る夜に母親、兄と一緒に銭湯に行くのだが長い帰り道で温まった体がすっかり冷えてしまうのだ。後年かぐや姫が歌った「神田川」を聞いて実体験と重なった覚えがある。

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当時長屋の子供はどこへ行っても分け隔てなく晩御飯を食べたり食べさせてもらっていたような記憶がある。もちろんごちそうなどはないけれど、白飯、コロッケ一個とお味噌汁だけでも美味しかったのだ。

新しい服など買ってもらった記憶がない、ほとんど兄のおふるか母親が仕事先の同僚からいただいてきたおふる。ズボンは膝あて、上着もを肘の部分は繕って着ていた。それが普通だったので自分が貧乏だと気にしたこともなかった。ファミコンもプレーステーションもない、遊びはベーゴマ、ビー玉と空き缶があれば十分だった。

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さてクリスマス・パーティーは僕ら夫婦を含めても5人だけ。ロスの片隅で暮らす、職種も年齢もバラバラな人間が集まった。奥様が蒸発して小さな子供二人を男手一つで育て上げた元駐在員の75歳男性。乳飲み子を夫に無理やり奪われて離婚に追い込まれ30数年後に息子と再会を果たして新しい家族の歴史を作り始めた50歳代の女性。いろいろな人生があって何が不幸なのか、何が幸せなのか考えさせられた夜だった。

今ボクはご馳走を食べたり高いお酒を呑むことが出来るようになったけれど、ボクの根っこは「貧乏な庶民」なんだ。それ以上でもそれ以下でもない。金持ちを装う必要もなければ羨む必要も無い。身の丈に合った生活をすれば良い。キリストの生誕とは全く関係なくて申し訳ないが、聖夜にそんなことを考えさせられました。

注:全ての写真は昭和40年代の日本の子供達の写真です。ボク個人の写真ではありません。

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聖夜に想ったこと」への2件のフィードバック

  1. お久しぶりです。 今日の越後三条は雪が少しだけ積もっています。 そして鉛色のソラ。  青い空の広がる西海岸、いつか行ってみたいです。 

    いいね: 1人

    • 日本は年末休暇突入ですねぇ、うらやましい!今朝嫁が日本へ帰省しました。年がら年中同じ気候の土地で住んでいると四季のある新潟が懐かしいと思うから不思議です。今は円高なのでアメリカにも遊びに来てください。それでは良いお年を!

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